実務の罠。神奈川県「モデル定款」への戦略的服従が生む、大量の登記懈怠

医療法人の分院展開や移転など、都道府県へ定款変更の認可申請を行った際、窓口の担当官から「手続きをスムーズに進めるために、当県が策定した最新のモデル定款に合わせておいてください」と指導されることは日常茶飯事です。

実務の最前線において、この指導に抗うことは得策ではありません。窓口と無用な摩擦を生んで認可を遅らせるよりは、行政の意向に沿って定款を書き換える「戦略的服従」を選択するのが、プロの実務対応です。

しかし、ここで極めて重大な注意が必要です。 例えば、「神奈川県」のようなモデル定款に従う場合は、法人のガバナンスを揺るがす「ある罠」が潜んでいるからです。

神奈川県モデルに踏み込まれた「解散事由」のオリジナル規定

神奈川県が独自に策定したモデル定款には、厚労省や東京・埼玉には存在しない、つまり医療法第55条が規定する法定の解散事由(第1項第2号〜第7号)には定められていない、一歩踏み込んだ規定が存在します。

それが、同条第1項第1号(定款で定めた解散の事由)の枠組みを利用して、県が独自にねじ込んできた「(定款の)第4条に掲げる診療所のすべてを廃止したとき」というオリジナルの解散事由です。

具体的には、第45条の第3号に「第4条に掲げる診療所のすべてを廃止したとき」というオリジナルの解散事由が明記されています。

手続きを前に進めるため、この規定を自院の定款に丸飲みすること自体は構いません。問題は「その後」です。定款にこの文言を書き加えた瞬間、法務上「ある決定的な義務」が発動することを、多くの経営者や手続き代行者は失念しています。

医療法人等の登記について定める「組合等登記令」において、解散事由は明確な登記事項として定められています(第2条第2項第5号)。そして、県の指導に従って定款を変更し、この解散事由を新たに定めた瞬間、法人は法務局において「変更の登記」をしなければならない(同令第3条第1項)と厳密に規定されているのです。つまり、県のモデル定款通りに条文を追加した瞬間、それは管轄の法務局における「絶対的な登記義務」へと変貌します。

誰も指摘しないから放置される「法律違反」

ここからが、実務の現場で起きている恐ろしい現実です。

神奈川県から「定款変更認可書」が交付された瞬間、大半の法人は「これで手続きは無事に終わった」と安心しきってしまいます。県の担当官は医療法上の審査は行いますが、その後の登記までは関知しません。管轄外だからです。

その結果どうなるか。定款には「解散事由」が明記されているにもかかわらず、法務局の登記簿には一切記載されていないという、完全な法律違反(登記懈怠)状態に陥ります。

「登記が必要なことには薄々気づいていたが、県からも法務局からも特に指摘されないから放置しておこう」と目を背けているケースも少なくないでしょう。推察するに、現在の神奈川県下には、このモデル定款の罠にはまり「登記懈怠」を引き起こしている医療法人が、おびただしい数存在しているはずです。同様の規定をモデル定款に採用している他県においても、事情は全く同じです。

M&Aのデューデリジェンスで露呈する致命傷

「指摘されないなら、放置しておいても実害はないだろう」と高を括るのは危険です。この登記懈怠の真の恐ろしさは、将来、事業承継やM&A(第三者への売却)を行う際に牙を剥きます。

いざ法人を売却しようとした際、買手側の弁護士や公認会計士は、厳格なDD(デューデリジェンス=買収監査)を行います。彼らが定款と登記簿を突き合わせた瞬間、この矛盾は一瞬で露呈します。

「この法人は、自らの定款変更に伴う法定の登記義務すら何年も放置している。法務コンプライアンスの意識が極めて低く、見えない簿外リスクが大量に眠っているに違いない」

たったひとつの登記懈怠が、ガバナンス崩壊の象徴として扱われ、ディールの評価額を叩き落とされる致命傷となるのです。行政指導には従うべきですが、その裏にある法務のメカニズムまで見通せなければ、最後に首を絞めるのは自分自身なのです。

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